武田神社情報

武田神社

武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に築城した躑躅ヶ崎館跡に鎮座しております。
この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りに渡って居住し、昭和13年に国の史跡に指定されました。
館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、武田家の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折に山梨県下各 所より寄進を受けた数百種類の樹木が、四季折々の風景を見せております。

武田神社 春例大祭


信玄公のご命日にあたる4月12日の午前9時より武田神社の例祭が執り行われます。4Km離れた遊亀(ゆうき)公園のお旅所までお神輿(みこし)が巡幸(じゅんこう)し、これに24将の騎馬武者がお供します。 また、毎年4月12日の直前の土曜日夕刻には甲府駅南口広場を中心に甲州軍団出陣が行われ約1,600名の軍勢が市中を練り歩きます。

武田神社 夏越祭


6月29日には夏越祭が行われます。これは知らず知らずに犯した罪穢を紙の人形(ひとがた)に託し、「茅(ち)の輪」をくぐり心身をお祓いする、我が国に2000年も前から伝わる行事です。武田神社では6月1日から「茅の輪」を設けご参拝の方々におくぐり戴いております。

国指定史跡 躑躅ヶ崎館跡


武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎館跡に鎮座致しております。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。 館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。。

宝物殿


武田神社御宝物の白眉は三條家より寄進された「吉岡一文字」の太刀であり、国の重要文化財に指定されております。この太刀は神社ご創建以前の明治13年の明治天皇様の本県行幸啓の際、供奉の三條實美太政大臣と信玄公正室の三條夫人との縁により、神社創建を祈念して奉納された同家伝来の名刀であります。そして、大正8年の神社ご創建以来全国の武田家関係者より同家ゆかりの遺宝等をご奉納戴き、昭和47年に開館致しました。 収蔵されております品は歴史的、文化的価値もさることながら、それらに対峙しておりますと、戦国の世に文字通り命を賭けて天下統一の夢に、また、内政に心血を注いだ武士(もののふ)の情熱を感ぜずにはいられません。

甲府五山とは

甲府(府中)五山は、武田信玄公が府中やその周辺に定めた5つの寺院のことです。 信玄公は広く仏教を信仰し、寺院・僧侶を崇敬保護しました。なかでも禅法を尊び、諸国から禅の高僧を招き、その教えを政治(民政)・軍政に大きく反映させました。 臨済禅の関山派に深く帰依した信玄公は、京都や鎌倉にならい、長禅寺・東光寺・能成寺・円光院・法泉寺を甲府五山に定めました。いずれも武田氏とゆかりの深い寺院です。

長禅寺 (ちょうぜんじ)

甲府五山の筆頭にあげられる名刹。信玄公の母・大井夫人の菩提寺です。 長禅寺が開かれた時の住職・岐秀元伯は、大井夫人が招いた、信玄公の幼少期からの学問・政道の師。信玄公の人間形成に大きな影響を与えたといわれています。また、信玄公に、それまでの武田晴信から「機山信玄」という法号を与えたことでも有名な高僧です。

能成寺 (のうじょうじ)

信玄公の父・信虎の曽祖父である武田信守の菩提寺です。もともとは八代郡(現:笛吹市)にあり、信玄公の時代に府中に、さらに、甲府城築城の時、現在地に移ったといわれています。 境内には芭蕉の句碑、赤穂藩の家老・大野九郎兵衛の墓などがあります。

東光寺 (とうこうじ)

名僧・蘭渓道隆(大覚禅師)が再興し、信玄公が厚く保護したお寺です。 信玄公の長男・義信と諏訪頼重のお墓があります。 長男・義信は父・信玄と対立したといわれ、東光寺に幽閉され、自害しています。また、諏訪頼重は、名門・諏訪家の当主で、信玄公の諏訪侵攻の時、捕らえられ、東光寺に幽閉され、切腹しました。 そのほか、境内には、蘭渓道隆が築いたといわれる見事な庭園(県文化財)、室町時代に建てられたという、国の重要文化財に指定されている仏殿(薬師堂)などがあります。

円光院 (えんこういん)

つつじが崎のふもとにあり、信玄公の正室・三条夫人の菩提寺です。 説三和尚を住持として開山し、甲府五山の一つに加えて保護しました。三条夫人が元亀元年(1570)に没したので、この寺に葬りました。 円光院の名は、夫人の没後、その法号をとって称されるようになったものです。 寺には信玄公の寄進状や遺宝が伝えられています。

法泉寺 ほうせんじ

南北朝時代に甲斐守護・武田信武が建てたお寺で、武田信武、信玄公の第四子・勝頼の菩提寺です。 信玄公の跡を継いだ勝頼は、天正10年(1582)、天目山の戦いで敗れ、織田信長により、首級は京にさらされました。勝頼の葬儀は京都の妙心寺で行われ、葬儀に参列した法泉寺の快岳宗悦和尚がその歯髪の一部をもらいうけ、法泉寺境内に埋葬したと伝えられています。その「歯髪塚」の目印に桜が植えられたといわれ、現在も勝頼の墓地には桜の木があります。

信玄公墓 (しんげんこうはか)

信玄公の遺体を火葬した場所だといわれ、火葬塚とも呼ばれています。 信玄公の墓はこのほか、山梨県内では大泉寺、恵林寺、長野県の諏訪湖、長岳寺と竜雲寺、和歌山県高野山、愛知県福田寺、京都の妙心寺など全国にあります。 これは信玄公が遺言によって、喪を3年間秘めていたことや万一の外敵を恐れて、埋葬地を秘密にしていた結果ともみられています。 大泉寺 (だいせんじ) 大永元年(1521)、武田信虎が天桂禅長を開山として建てた寺で、信虎の菩提寺です。 天正2年(1574)3月、信虎が信州で没した時、その遺骸を国元に送り、ここに埋葬されました。 この寺も戦災のため、法堂、庫裡などを焼失しましたが、幸い、武田3代の霊廟、総門、宝蔵は火をまぬがれ、霊廟には信虎・信玄・勝頼3代の肖像が安置されています。

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