yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  4.文芸(その2)

【中世】

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春を誘う天津司の舞

禅宗文化

甲府五山

武人画家

春を誘う天津司の舞

   4月10日に近い日曜日、甲府市南部の小瀬スポーツ公園近くで行われるのが、天津司の舞です。お船祭りとも呼ばれています。県内唯一の国指定の重要無形民俗文化財です。天津司(てんづし)神社で支度された9体の人形が、顔を赤布で覆われ、笛と太鼓の音にのって、氏子に担がれ、500m南にある諏訪神社まで「お成り」します。諏訪神社境内には、四方に青竹を立て、その周囲を幕で囲んだ「お船」が設けられています。到着した人形はそのなかに安置されます。9体の人形は、一のささら、二のささら、一の太鼓、二の太鼓、一の鼓、一の笛、鹿島さま。姫さま、鬼さまと呼ばれています。下から糸を引いて首や手を動かす仕組みになっています。人形は、赤い布を解かれ、「お船」のなかで次から次へと太鼓と笛の音にのって舞います。観客は、幕の外から幕の上に出た上半身の人形の舞を見ることになります。舞が終わると、元の道を戻ります。いつから始まったか分かっていませんが、中世の田楽などの古い形式を今に伝えています。

【見所】[甲府市の天津司の舞]

禅宗文化

  武田氏は臨済宗をはじめ、諸宗を保護し、中世寺院が多く造られました。 神社は、武田氏の氏神である八幡神社、富士山を信仰対象とする浅間神社、諏訪を拠点として武神として崇められる諏訪神社などが、多く残っています。

  1211年甲斐源氏加賀美遠光(とおみつ)が、自己の菩提寺として甲府市小曲町に遠光寺を建立しました。臨済禅を日本に伝えた、京都五山の建仁寺の栄西禅師を開山として招きましたが、老齢病弱のため弟子の宗明が遣わされたといいます。甲斐における臨済宗の最初の寺院ではないかといわれています。その後法華宗に改め、身延山の三大末寺の一つとして、布教の拠点でした。小曲は水害が多く、蓬沢に移され、1532年から1555年に現在の甲府市伊勢の新新平和通り沿いに移転されたといいます。境内には加賀美遠光の供養搭があります。

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恵林寺

  禅宗は、1296年臨済宗の夢窓疎石が甲斐に入り、広まります。夢窓疎石は、伊勢国に生まれ、幼少に甲斐に移り、9歳のとき市川大門に平塩寺で出家しました。禅の道に入り、京都南禅寺、西芳寺、天龍寺、鎌倉瑞泉寺などを歴任しました。傑出した禅僧として知られ、後醍醐天皇を始め7代の天皇から「国師」号を贈られています。

  1330年にその夢窓を開山として、二階堂貞藤(出家して道蘊)が恵林寺を建てます。二階堂氏は、伊豆国出身で、初代・行政が鎌倉の永福寺(別名二階堂)に住んだところから名前がつき、鎌倉幕府の政所別当になり、代々執事に任命されていました。道蘊は執権北条高時の重臣として活躍し、鎌倉末期に山梨郡牧の荘(塩山市から牧丘町)を領有していました。寺内に貞藤の供養搭があります。本堂裏には、面積2,200uの夢窓国師作庭の庭園があり、京都の西芳寺・天竜寺とともに国師の代表的な作といわれています。

    1333年鎌倉幕府滅亡の年に足利尊氏が夢窓を迎えて、清白寺を創建しました。甲斐の守護で尊氏の片腕武田信武が関係したと思われます。唐様(禅宗)建築の代表的建築物です。その後火災で焼失し、現在の本堂は1415年の建立です。仏殿が国宝に指定されており、県内では国宝指定の建築物は大善寺と清白寺の2棟だけです

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棲雲寺

    1348年業海本浄(ごっかいほんじょう)は、大和村の木賊(とくさ)に棲雲寺(せいうんじ)を開山しました。業海は、1318年にチャイナに渡り、天目山の普応国師に参じ、帰国後大和のこの地がチャイナの天目山に似ているところから開山したといいます。丹波国高源寺を「西の天目」というのに対し、「東の天目」といわれていました。1415年関東管領上杉禅秀の乱に連座して、木賊山(とくさやま)で1417年自害した武田信満の墓があります。鎌倉建長寺の末寺の四大寺院の一つで、寺宝も多く、国重要文化財の普応国師座像はじめ、武田信玄の使用した軍旗や軍配、文鎮などもあります。裏手には、石庭もあります。
   1380年武田信成(のぶしけ)を大檀那として、抜隊得勝(ばっすいとくしょう)、大円禅師によって向嶽寺が創建され、たちまち1千人の僧徒が集まったといいます。今でも臨済宗向嶽寺派(法燈派・塩山派)の大本山であります。

   抜隊禅師は、1327年に相模国で生まれ、法燈国師(和歌山の興国寺開山)の法嗣で、出雲国雲樹寺の開山である弧峯覚明(三光国師)に師事して、その印可を受けました。1378年に塩山市竹森に草庵を営み始めました。富士山に憧れ、寺名も富嶽に向かう意味から付けられたといいます。1385年には、南朝の勅願寺となりました。

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向嶽寺

     抜隊の師は南朝を支持しており、それに対抗して、足利氏は、同じ年に絶海中律(ぜっかいちゅうしん)を恵林寺の住職として甲斐に入国させました。絶海は13歳で天竜寺の夢窓疎石に師事し、10年間明に渡り修行を行い、天竜寺住持を経て、3年間恵林寺にいました。寺は教えを請う人々で活況を呈したそうです。宗教面だけでなく、五山文学に通じて、文化面にも影響を及ぼしました。

    信玄は、1564年快川紹喜(かいせんじょうき)を招き、恵林寺の住職とし、自らの菩提寺としました。快川国師は、1555年にも短期間来訪しており、それ以来信玄から師と仰がれていました。国師は、武田家滅亡の時織田軍に襲われ、恵林寺山門で「心頭滅却すれば火自ずから涼し」と喝破し、従容として焼死しました。

【見所】[甲府市の遠光寺][塩山市の恵林寺][山梨市の清白寺][大和村の棲雲寺][塩山市の向嶽寺]

甲府五山

   信玄は、1552年甲府五山を制定します。東光寺、能成寺、長禅寺、円光院、法泉寺です。

  長禅寺は、もともと甲西町鮎沢にあり、1316年夢窓疎石によって真言宗から臨済宗に改宗され、信玄の母大井夫人の菩提寺です。鮎沢の地は、武田大井氏の所領で、大井氏は武田信武の三子信明を祖として、西郡の雄族となり、甲斐統一をめざす信虎の最大のライバルでした。大井信達(のぶさと)の娘が信虎と結婚することで、和議が結ばれました。のち大井夫人といわれ、信玄、信繁、信廉の生母となりました。寺は甲府から遠いために、甲府駅の東、JR中央本線沿いの愛宕山の麓に、移されました。信玄はここで出家しました。現在でも、五重塔の荘厳な寺院です。元の甲西町鮎沢の寺を古長禅寺といいます。古長禅寺には、大井夫人の墓があり、夢窓国師座像は国の重要文化財に指定されています。夢想の築庭、4本のビャクシンの巨樹(国の天然記念物)もあります。

   円光院は、躑躅が崎の東、夢見山の麓、岩窪町にあり、信玄の正室三条夫人を開基とし、夫人の墓があります。

   法泉寺は、湯村山の東の麓、緑ヶ丘スポーツ公園の奥にあり、鎌倉末期夢窓疎石を開山として武田信武の開基で、勝頼の菩提寺です。夢窓疎石の庭があります。

   能成寺は、業海本浄が開山し、信虎の曾祖父信守の開基で、南北朝時代八代町につくられました。甲府城築城のおりに現在地の愛宕山の東の麓に移転されました。

   東光寺は、1121年甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が建立し興国院と称しました。宋僧の蘭渓道隆が入山し、禅宗の寺としました。信玄の側室湖衣姫の兄、諏訪頼重の墓と信玄の長子義信の墓があります。仏殿は、室町時代禅宗建築の代表的建物で国の重要文化財で、庭園は枯山水で、県の名勝に指定されています。

【見所】[甲府五山]

武人画家

  信玄の弟・信廉(のぶかど)は、出家して武田逍遥軒信綱(たけだしょうようけんしんこう)と称しました。武将ですが、戦歴はほとんど知られておらず、画人としては著名です。長禅寺にある母大井夫人画像や大泉寺にある父信虎画像など、優れた画が残されています。菩提寺が逍遥院で、甲府市の桜井町にあります。

【見所】[甲府市の長禅寺][甲府市の大泉寺][甲府市の逍遥院]

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