yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  1.歴史 C 【鎌倉時代

「中世の信仰拠点」

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韮崎を拠点に武田家が発展

武田家は甲斐と安芸に分れる

甲斐の九筋

中世の信仰拠点

韮崎を拠点に武田家が発展

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武田八幡神社

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放光寺

   甲斐源氏の祖義光・義清・清光と一子相伝されていた甲斐源氏の統領は、清光の子で韮崎を拠点にしていた武田信義(のぶよし)に引き継がれていました。信義が、韮崎市神山町に武田氏の氏神として、宇佐八幡、石清水八幡を勧請し、武田八幡神社となりました。神社には、信義の孫で信光の子一条信長の大般若経(現在若草町法善寺所蔵)があり、現本殿は1541年信玄公によって建立されました。武田勝頼夫人の勝利祈願文もあります。神社の近くには、信義の館跡と信義の墓と伝えられている願成寺があります。

   1180年信義は、平家追討のため甲斐源氏を石和に集結・挙兵させ、富士川の合戦で平家を破ります。しかし、その後鎌倉幕府の体制を固める源頼朝から謀反の疑いをかけられ、嫡子一条忠頼(ただより)は殺害され、信義は職を追われ失脚します。さらに、信義の子たちは、板垣兼信(かねのぶ)が配流、武田有義(ありよし)が逐電・失脚します。義清の子で清光の弟、信義の叔父・安田義定(よしさだ)と嫡子田中義資(よしすけ)は、ともどもさらし首となります。鎌倉幕府の確立のため、甲斐源氏はその勢力を抑えられたのでした。塩山市の放光寺は、1184年一帯を支配していた義定によって開創されたといいます。

 【見所】[韮崎市の武田八幡神社][韮崎市の願成寺][塩山市の放光寺]

武田家は甲斐と安芸に分れる

    頼朝が親近感を持った甲斐源氏は、信義の5男・石和信光(のぶみつ)と遠光の次男・小笠原長清(がなきよ)です。室町時代になり、その子孫小笠原貞宗(さだむね)が武家の作法「小笠原流」をまとめたことは有名です。当時の武家の雰囲気を残した建物は、塩山市の於曾屋敷として残っています。信光は、鶴丘八幡宮を勧請して、石和八幡神社をつくりました。信光以降、武田家は甲斐だけでなく、安芸国(広島県)の守護も任命されています。武田総領家は安芸に移り、信光の孫武田信時(のぶとき)、信武(のぶたけ)が継ぎます。甲斐は残った一族である信時の子一条信長(のぶなが)、政綱、一条時信、政義と相伝されたのではないかといわれています。

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石和八幡神社

   【見所】[塩山市の於曾屋敷[石和町の石和八幡神社]

甲斐の九筋

   鎌倉時代甲斐国の中心地は石和であり、鎌倉と鎌倉街道で結ばれていました。1221年承久の乱の時、武田信光は藤原光親を護送して、鎌倉街道の籠坂峠で斬首し、小笠原長清は権中納言源有雅(ありまさ)を鎌倉街道か河内路で護送し、稲積荘小瀬村で処刑しました。現在でも、甲府市小瀬町の小瀬団地内に富士塚と呼ばれる墓所が残っています。 

   甲斐国の中世以前の古道は「甲斐の九筋(くすじ)」と呼びました。駿河へ向かうのは4道で、鎌倉街道(御坂路)、鳥坂峠から大石峠を経た若彦路、右左口峠から阿難坂を経る中道往還、富士川沿いの河内路です。武蔵へは2道で、雁坂峠を抜ける秩父往還(雁坂口)、大菩薩峠を抜ける青梅街道(萩原口)です。信濃へは3道で、諏訪へ行く逸見路(諏訪口)、大門峠へ向かう棒道(大門峠口)、信州峠を抜ける穂坂路(川上口)です。以上9道です。戦国期には信濃へは佐久往還(平沢口)、武蔵へは桂川沿いののちの甲州街道ルートも使われました。

【見所】[甲府市の富士塚

中世の信仰拠点

   鎌倉街道のためか、山間の小国でありながら、鎌倉仏教が早くから流入します。臨済宗の栄僧で、1246年に来日し、執権北条時頼の帰依を受け、建長寺を開いた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、甲斐に2度(一説には3度)も流され、甲府市の東光寺や韮崎市の永岳寺を創立しています。東光寺の庭園はすばらしいものがあります。

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身延山久遠寺

   日蓮は1274年鎌倉から河内路を通って、信者である波木井実長(はきいさねなが)のいる身延へ入り、死の直前1282年までとどまります。身延町梅平には波木井氏の屋敷跡が残っています。1281年波木井実長は日蓮のために建立した一宇を久遠寺と命名します。ここ身延が日蓮宗の一大拠点となりました。
   また、時宗二世遊行上人(ゆぎょうしょうにん)・他阿真教(たあしんきょう)は、1278年に豊後で一遍と出会って弟子となり、師の死後、後を継いで全国を遊行しました。1295年に甲斐に入国しています。時宗は、称名(南無阿弥陀仏)を唱えることによって、極楽往生できると説き、殺傷を仕事とする武士に救いを与えました。真教が歩いた道には、いまでも時宗の有力寺院が残っています。須玉町若神子の長泉寺(若神子道場)、甲府市太田町の一蓮寺(一条道場)、石和町の長福寺(二条道場)、御坂町黒駒の称願寺(黒駒道場)、富士吉田市上吉田の西念寺(富士道場)です。一蓮寺は1312年に甲斐守護の一条時信が一条氏の祖忠頼夫人の尼寺を時宗に改めたものです。当時は一条小山、現在の甲府城にありました。称願寺には、他阿真教座像が残っています。
   1296年には、臨済宗の夢窓疎石が甲斐に入ります。1330年にその夢窓を開山として、二階堂貞藤が恵林寺を建てます。本堂裏には、面積2,200uの夢窓国師作庭の庭園があります。京都の西芳寺・天竜寺とともに国師の代表的な作といわれています。

  1333年鎌倉幕府滅亡の年に足利尊氏が夢窓を迎えて、清白寺を創建しました。その後火災で焼失し、現在の本堂は1415年の建立です。国宝に指定されています。

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恵林寺庭園

     守護大名の武田氏も臨済宗をはじめ、諸宗を保護し、中世寺院が多く造られました。 神社は、武田氏の氏神である八幡神社、富士山を信仰対象とする浅間神社、諏訪を拠点として武神として崇められる諏訪神社などが、多く残っています。

  【見所】[[甲府市の東光寺[身延町の久遠寺][甲府市の一蓮寺][中道町の称願寺][塩山市の恵林寺][山梨市の清白寺]

 

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