yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  4.文芸(その4)

【近現代】

樋口一葉、金子文子、小川正子

山本周五郎、深沢七郎

井伏鱒二と太宰治

飯田蛇笏

樋口一葉、金子文子、小川正子

    「我が養家は大藤村の中萩原とて見わたす限りは天目山、大菩薩の山々峯々の垣をつくりて、」

   樋口一葉は、『ゆく雲』に両親の実家の塩山市のことをと書いています。本名なつといい、両親がともに塩山市の出身です。1872(明治5)年に東京に生まれ、古典文学を学んで文学への関心を深め、早く父を失って貧困のなかに作家をめざしました。1892(明治25)年山梨の「甲陽新報」に『経つくえ』を連載します。その後、『うもれ木』『雪の日』『大つもごり』『たけくらべ』『ゆく雲』『のごりえ』『十三夜』を生み出します。1896(明治29)年24歳で亡くなります。現在塩山市には、樋口一葉の碑があります。山梨県は、樋口一葉を記念して、やまなし文学賞を制定いたしました。

   『何が私をかうさせたか』を書いた、アナーキスト・金子文子(かねこふみこ)は、1904(明治37)年に横浜で生まれ、両親の離婚によって母の実家のあった東山梨郡諏訪村(現牧丘町)で育ちました。その後、韓国併合後の朝鮮に渡り、7年間地獄のような生活を過ごし、朝鮮人差別を目の当たりにしました。帰国後、朝鮮人無政府主義者朴烈(ぼくれつ)と出会います。二人は結婚して、アナーキスト団体不逞社を起こし、活動を展開します。関東大震災のなか、朝鮮人や社会主義者が虐殺される騒然とした雰囲気のなかで、二人は保護を名目に逮捕されてしまいます。やがて、皇太子暗殺を計画したという大逆罪をでっちあげられ、死刑宣告を受け、恩赦によって無期懲役になりましたが、独房で自殺してしまいました。文子21歳の夏でした。

   『小島の春』を書いた、救癩活動に尽力した・小川正子(おがわまさこ)は、1902(明治35)年東山梨郡春日居町に生まれます。県立甲府高等女学校を卒業して、官僚・樋貝詮三と結婚しましたが、3年で破局してしまいます。正子は東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)に学び、医者となり、ハンセン氏病(癩病)に取り組みます。当時、ハンセン氏病は、不治の病といわれ、患者は不浄者、天刑病者として差別されて、人目を避けて土蔵や納屋に押し込められ、死を待つばかりの不当な扱いを受けていました。発病は、遺伝であると信じられていました。瀬戸内海に浮かぶ長島に救癩活動の拠点・愛生園があり、28歳の正子は飛び込みます。そこで、診療活動をしたり、四国を回り、患者に入院を勧め、ハンセン氏病は伝染病であるという啓蒙活動を展開しました。しかし、7年で当時不治の病と恐れられていた結核にかかってしまいます。2年間の長島での療養から 『小島の春』が生まれ、故郷春日居町桑戸に帰っての療養生活のかいなく、1943(昭和18)年41歳の生涯を終えたのでした。

【見所】[甲府市の文学館][塩山市の樋口一葉の碑][牧丘町大室の金子文子の碑][春日居町の郷土館・小川正子記念館]

山本周五郎、深沢七郎

   山本周五郎は、本名清水三十六(さとむ)といい、1903(明治36)年大月市初狩町に生まれます。幼年に山津波に遭い、故郷を離れます。昭和初期から大衆作家として活躍します。戦後活発に小説を書き、多くは劇化されます。故郷山梨のことは『山彦乙女』などに書いています。1967(昭和42)年64歳で死去しています。

   深沢七郎は、1914(大正3)年に石和町に生まれます。1956(昭和31)年姥捨伝説をもとにした『楢山節考』で第1回中央公園新人賞を取り、デビューします。『笛吹川』を発表し、1960(昭和35)年には、中央公論に『風流夢譚』を発表します。夢の話として天皇の首が落ちるなどの表現に右翼抗議し、中央公論社長宅が襲われ、お手伝いさんが殺されるという事件が起き、世情が騒然とします。埼玉県にラブミー農場を開き、『甲州子守歌』を発表しています。今川焼屋「夢屋」を開業し、『みちのくの人形たち』『極楽まくらおとし図』を発表します。1987(昭和62)年73歳で死去しています。

井伏鱒二と太宰治

【見所】[甲府市の亀屋座跡・教安寺]

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