yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  4.文芸(その3)

【近世】

PE06308_.WMF (30094 バイト)     

江戸文化の流入

歌舞伎の隆盛

学芸の普及

木喰上人と微笑仏

江戸文化の流入

東光寺柳沢墨竹図.jpg (5801 バイト)

柳沢淇園「墨竹図」

(東光寺蔵)

   甲府徳川家のあと、1704年甲府城主となった柳沢吉保(よしやす)から、その子吉里(よしさと)にいたる20年間は、藩政の時代に入ります。吉保は、武田家の流れを汲み、五代将軍綱吉の側用人として権勢を奮いました。徳川家以外には領有しなかった重要な地甲斐に、吉保の領有が許されたのでした。この時期に、甲府は一新したといいます。城郭の修繕、屋敷や黄檗宗の永慶寺の建立(現在は護国神社が建ち、山門は大泉寺総門として残っています)、市街地の整備と拡張が図られました。甲斐八景の和歌をつくったり、甲斐八珍果を制定したり、文化や産業振興に尽力しました。吉保に招かれた荻生徂徠は、城下がよく整備されて、町が賑わっているさまを、江戸と異なることがないと記しています。城下町は、上府中26町、下府中23町がありました。吉保の墓は、恵林寺にあります。

   甲府城代家老柳沢保格(やすただ)の次男里恭(さととも)は、藩主柳沢吉里から名前を拝領し、柳沢淇園(ぎえん)、柳里恭(りゅうりきょう)ともいい、わが国における文人画の草創期を代表する人物です。多芸多才で書画や詩文のほか音曲、仏典などにも通じていました。

   1724年八代将軍吉宗は柳沢吉里を大和郡山に所替えするよう命じ、それからは幕府直轄地となり、甲府勤番(旗本)支配となります。甲府城に2名の甲府勤番支配とその配下の番士200名が府中を支配し、甲府・石和・市川大門に陣屋が置かれ、谷村には出張所が置かれ、代官が治めました。江戸文化が流入し、繁栄しました。

 【見所】[甲斐八景][甲府市の東光寺]

歌舞伎の隆盛

    1765年亀屋与兵衛が教安寺境内へ仮小屋を建てて、浄瑠璃仕形芝居の興行が行われ、市川団十郎などの名題役者が入峡して、歌舞伎が大衆化していきました。1805年からは西一条町(現若松町)に亀屋座が新築されて、関東八座の一つと呼ばれるほど、繁盛しました。浮世絵師安藤広重も、入峡したさい亀屋座の芝居を楽しんでいます。「江戸の役者の給料定め」と呼ばれるくらい、江戸文化の流入とそれを受容した町衆のレベルの高さが喧伝されています。

三珠町市川団十郎.jpg (2813 バイト)

12代市川団十郎

三珠町歌舞伎文化公園.jpg (6763 バイト)

三珠町の歌舞伎文化公園

   1582年徳川家康軍に攻められた一条信龍は、討死にしました。信龍は、信玄の異母弟・信虎の8男で武田勝頼の後見人でした。信龍の館があった上野城は、三珠町の歌舞伎資料館の北西にある蹴裂神社境内にあったそうです。現在信龍の祠と城跡の碑があります。三珠町に歌舞伎資料館が建てられたのは、その信龍の家臣堀越十郎が、この地を領有し、その曾孫の蝦蔵が歌舞伎役者の初代団十郎であることによります。堀越十郎は、武田家の能の先生でもあったといいます。相模・北条氏との戦いに武功をたてて、三珠町上野に領地を拝領しました。まさに武勇と芸能の両方をあわせもった人物でした。資料館には、歌舞伎に関する資料や歴代団十郎の紹介、市川家ゆかりの歌舞伎十八番「助六由縁江戸城」の舞台(11代団十郎)が再現されています。資料館隣には、歌舞伎文化公園があり、記念碑があり、牡丹4千本に彩られています。

【見所】[甲府市の亀屋座跡・教安寺][三珠町の歌舞伎資料館・歌舞伎文化公園]

学芸の普及

  1734年加賀美光章が小河原村山王神社に私塾「環松亭」をつくります。現在の甲府市下小河原の日吉神社です。加賀美光章は、1708年江戸で生まれ、17歳で京都で遊学し、和歌、国学、儒学、天文暦などを学びます。38歳で現在地の小河原村の山王権現の祠官となりました。1782年に74歳でなくなるまで、千数百人の門弟の指導に当たります。いまでいう一大大学です。朱子学的道徳を強調する一方、強烈な尊皇思想を吹き込みました。門弟からは、討幕論を主張し処罰された山県大弐などを輩出します。現在、竜王町の篠原に山県神社があります。

   1796年には城内に甲府学問所がつくられ、1805年新学舎が建てられ、徽典館(きてんかん)と命名されました。現在の山梨大学教育学部の前身です。1801年のちに『甲斐国志』を編集した内藤清右衛門が、西花輪村(現田富町)に時習館をつくりました。1823年には、小城村天神社境内(現一宮町)に石和教諭所(由学館ゆがくかん)が創立され、1842年には谷村教諭所(興譲館こうじょうかん)がつくられ、県内に2つの郷校ができました。1835年西野村(現白根町)に手習所創設の願書が出され、翌年村内の宝珠院境内に西野手習所(松声堂しょうせいどう)がつくられました。現在の白根東小学校です。江戸時代つくられた寺子屋は269ヶ所あり、東山梨地域に多く、全体の4分の1を占めています。

  「目に青葉   山ほととぎす 初鰹」の句で有名な山口素堂以来、俳諧は盛況でした。その伝統が、いまでも飯田蛇笏・龍太親子に生き続けています。江戸時代、生花も流行します。

【見所】[甲府市の環松亭跡・日吉神社][竜王町の山県大弐私塾跡・山県神社][白根町の宝珠院]

木喰上人と微笑仏

下部町微笑館展示品.jpg (2940 バイト)

微笑仏(微笑館)

  国道52号線の中富町西島から富士川にかかる峡南橋を渡ります。六郷町から下部町に入り、国道300号線に合流するために、途中を右折して北川の峠にかかり、トンネルの手前をさらに左折して細い道を行きます。しばらく行った山の上が、微笑仏をつくり、全国各地を回国行した木喰上人が生まれた、下部町丸畑であり、現在そこには木喰の里微笑館があります。

  木喰上人は、1718年伊藤六兵衛の次男として生まれます。14歳で江戸へ出て、22歳で神奈川県の大山不動尊に参詣し、真言宗の大徳に出会い、出家します。45歳で常陸国羅漢寺で木食観海上人により木食戒を受け、木食行者・行道と名前を改めます。56歳の時、全国回国修行の大願を起こし、93歳で没するまで北海道から九州まで37年間旅をし、微笑仏と呼ばれる供養仏を残しました。木喰仏は、消防の父と呼ばれた池田村(甲府市に編入)村長の小宮山清作が柳宗悦に紹介し、柳が世に紹介したところから有名になりました。

【見所】[下部町の微笑館]