yamanashi.jpg (12132 バイト)山梨の魅力紹介  1.歴史 A【弥生・古墳時代】 

東日本最大級の古墳群 

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弥生時代
古墳時代
律令国家下の山梨は4郡31郷
甲斐路と3駅
「酒折宮」と「甲斐の黒駒」

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中道町の県立考古博物館

と風土記の丘曾根丘陵公園

 弥生時代

  弥生時代は、紀元前3世紀頃大陸から九州に稲作が伝わって始まり、西日本から東日本へと広がます。山梨には、第1は長野県から八ヶ岳南麓の北巨摩地方へ、第2は東海地方東部から富士五湖・桂川流域へ、および御坂山系を越えて、甲府盆地への2つの稲作ルートがあったと考えられています。

  第1ルート上の遺跡は、韮崎市の中道(なかみち)遺跡、中田(なかだ)小学校遺跡、大泉村の金生遺跡などがあります。第2ルート上には、桂川流域の生出山遺跡、中道町の米倉山遺跡など、があります。甲府盆地内では、中央本線竜王駅の北側200mの貢川左岸にある、敷島町の金の尾(かねのお)遺跡があます。境川村の寺尾(てらお)遺跡から出土した土器底部から、もみの圧痕が発見され、八代町の身洗沢(みあらいざわ)遺跡からは、本県初の水田跡が見つかりました。

   中道町の上の平(うえのだいら)遺跡からは、方形周溝墓郡124基が確認されました。3世紀末と推定され、1軒が4〜5人程度の家族からなる十数軒がまとまって基本的な生活単位となって、農耕作業などを共同で行っていたと思われます。この小集落が、同じ丘陵の上に点在し、水の利用をめぐって、一つの大きな農業共同体を形成していたと考えられます。この共同体によって、一大共同墓地として形成されたのが上の平遺跡の方形周溝墓郡でした。弥生から古墳時代への過渡期の遺跡です。

【見所】[中道町の上の平遺跡]

 古墳時代

  約4世紀頃から7世紀頃までが、古墳時代です。4世紀になると、中道町の曽根丘陵一帯の農業共同体に、首長権をめぐり大きな変化がありました。在地首長間の争いから抜け出た首長か、もしくは東海西部からの外来首長のどちらかが地域を支配し、県内最古で唯一の前方後方墳を残しました。米倉山の山頂近くにある、全長45mの小平沢(こびらさわ)古墳です。

  その後、ヤマト王権が県内にも進出し、4世紀末には前方後円墳が出現します。県立考古博物館のすぐ後ろにある大丸山古墳は全長120mで、その下にある銚子塚古墳は全長169mで県内最大です。すぐ横に円墳の丸山塚古墳もあります。この一帯は東日本最大級の古墳群です。現在は、中央道甲府南インターのすぐ前にあり、県立考古博物館を拠点に、風土記の丘曾根丘陵公園として整備されて、その姿を見ることができます。

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県立考古博物館

     6世紀に入ると、前方後円墳の前方部が短くなった帆立貝式古墳が出現し、6世紀後半には八代町の荘塚(そうつか)や甲府市湯村の万寿森(まんじゅもり)古墳など、横穴式石室をもつ古墳が出てきます。そして、甲府市千塚の加牟那塚(かんなつか)古墳、御坂町の姥塚(うばつか)古墳の巨大な石室をもつものが出現します。これ以外に、土ではなく石を積み上げた古墳が、甲府市北部の山付地帯に見られます。積石塚古墳です。甲府市の横根町から桜井町、石和町の大蔵経寺山の南斜面に約140基が確認されています。この古墳は、高句麗系の渡来人集団の築造した説と、築造に適した石材が地元にあった環境自生説の2つがいわれています。

【見所】[中道町の県立考古博物館][甲府市湯村温泉近く万寿森古墳・加牟那塚古墳][甲府市横根町の積石塚古墳郡]

律令国家下の山梨は4郡31郷

   645年大化改新が起き、672年壬申の乱のときに、天武天皇についたのが騎兵「甲斐の勇者」でした。その勝利によって、唐を見習った中央集権の律令国家体制の建設が進みます。全国を国・評(のち郡)・里(のち郷)を置き、それぞれ国司・評造(郡司)・里長(郷長)に治めさせました。

   甲斐国は、山梨郡・巨麻郡(こまぐん)・八代郡(やつしろぐん)・都留郡(つるぐん)の4つの郡に分れ、いまでもその名称が残っています。第1は甲府盆地の北東、笛吹川流域の山梨郡。現在の県名はここからつきました。第2は甲府盆地西、八ヶ岳から南アルプスに連なる、釜無川流域から富士川左岸の巨麻郡。現在の甲府市も含まれています。馬(駒こま)の産地とも、高麗の渡来人が多くすんだから付いたともいわれています。第3は、甲府盆地南東部から富士川右岸の八代郡。第4は郡内地方全域の都留郡です。桂川の支流が蔓(つる)のように伸びているからとも、鶴の舞う姿に似ているからついたともいわれています。その下に、山梨郡10、八代郡5、巨麻群9、都留郡7の計31郷があったといわれています。特に、甲府盆地東側に、郷の過半数が集中しており、この地域は古代の政治経済文化の中枢地であったことがわかります。

    現在は、市制がしかれて、山梨郡から甲府市東半分、山梨市、塩山市、巨摩郡から甲府市の西半分、韮崎市、都留郡から富士吉田市、都留市、大月市の7市が誕生しました。西山梨郡が甲府市に編入されてなくなり、巨摩郡が北中南の3郡、八代郡が東西、都留郡が南北に分れ、8郡となっています。現在山梨県は、7市8郡64市町村で構成されています。

甲斐路と3駅

    当時の交通は、都と甲斐国を結ぶ駅路(甲斐路)があり、3駅がありました。東海道の横走(御殿場市)から分かれた甲斐路は、籠坂峠(昔は加古坂という)を越え、加古駅(山中湖村山中付近)、河口駅(河口湖町河口)を過ぎ、「甲斐の御坂」(御坂峠)を越えて、水市駅(通説は一宮町市之蔵、地理的には御坂町上黒駒付近か)を経て、甲斐国府に到着します。のちの鎌倉往還、御坂路です。御坂は神坂とも書き、信濃の御坂や足柄の御坂と同様に、交通の要衝に位置した険しい峠で、そこの住む神を畏敬してこの名が生まれたといわれています。現在は、国道137号線が通り、約4kmの御坂トンネルであっというまに抜けてしまいます。旧道には、太宰治が宿泊した天下茶屋があります。当時の国府は、八代郡に置かれ、通説では春日居町国府を前期国府跡、御坂町国衙を後期国府跡としていますが、一宮町国分付近、御坂町金川原方八丁などの説もあります。

【見所】[御坂町と河口湖町の御坂峠]

「酒折宮」と「甲斐の黒駒」   

  記紀には、東征のおりにヤマトタケルノミコトが酒折宮に立ち寄り、歌問答をしたという伝説があります。また、駿馬「甲斐の黒駒」の記述もあります。4世紀後半に百済から馬の飼育と乗馬の風習が伝えられ、全国に広がます。畿内政権はいち早く騎兵を軍隊組織の主力にし、5世紀倭の五王の時代に、地方を隷属化していきます。政権は地方に忠誠の証として税のような貢物を要求しました。諸国の寄進した物のなかに馬もあり、甲斐国造(かいのくにのみやつこ)の出した馬「甲斐の黒駒」が特に名声は博したのでした。

   また、畿内政権は百済から部(べ)の制度を移入し、人民支配の体制を整え、地方を実効支配していきます。その部の一つである日下部は、全国各地に設置され、中央で管理した貴族を日下部連(くさかべのむらじ)といいました。甲斐国造は日下部の一つであり、しかも名前も日下部でした。そんなところから、今でも、地名や人名に日下部が残っているのでしょう。穂坂の駒は、名馬として有名で、古歌にもしばしば登場します。甲斐の黒駒の伝統は、律令時代にも引き継がれ、御牧(みまき、天皇の牧場)が東国4国に置かれ、毎年朝廷に馬を貢進しました。それを天皇が見定め、分与したのが平安時代の宮廷の年中行事として有名な駒牽(こまびき)です。甲斐には3牧がありました。柏前(かしわさき、高根町念場原方面)、真衣野(まきの、武川村牧の原方面)、穂坂(ほさか、韮崎市穂坂町方面)の3つです。

【見所】[甲府市の酒折宮]

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